愛妻ヨーコさんが逝ってしまってから3日過ぎる。それが始まったのは、10日の事でった。何時ものように、夜が来て帰ろうとしたら、「カッチャン今日は行かないで、ズットいてよねぇ」というので、「サイですか、それではしばらくご一緒しましょう」と、老妻の傍らに椅子を置いて、手をさすり、足をさすり夜あか、やが。朝がきて手が冷たくなり逝ってしまった。壁の時計は9時半を指していた。こう書いていても、悲しみの波が襲い、胸は陰々たるモノが膨れるばかり也。やんぬるかな!

「紅葉する老年」と云う言葉が好き。老年期、戸惑うことばかり。孫の名前がとっさに出てこない!愛用するお店の名前も失念!探し物で、部屋に入ったら、目的を失念!と、悩ましいこの頃なのであります。一方、巷では、「人生100歳時代」と言うフレーズを耳にします。「そんな事は学校では教わりませんでした」などと、愚痴めいたことを言っても仕方がない・・・・。
後26年でそこに到達してしまう!店で立ち働いていると、「よく頑張ってますねぇ!」と、人様に褒められる事もある。こういう時は、気分爽快、元気が出るのであります。これはそんな老輩の日々を綴るものです。
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料理人 相場耀子伝


昭和19年、帝国海軍技官高橋米吉、初夫妻三女にて京都府生。父米吉海軍在航空機設計に携るも漢籍洋楽にしたしむ。初、真に大正女子にして文芸に通じる。而して、耀子、自ずからその素養得。即ち理性感性、自ずから正確、豊かなり。長じて家政学を学び、恋われて勝夫に嫁す。内に倹素を忍んで外に声望を張らんとする夫の生活は、耀子の内助を持つて、始めて保続された。夫、奔放にて我侭。耀子よく耐え二児を育む。夫、美味食を専ら求め屡海外を訪ね稀なる美味を探求。帰りてその詳細を家人に詳らかに報告、再現を求む。耀子、よくその渇望に応え研究するも屡再現侭成らず。育成り、夫に伴い食の快楽探求その多様なるを学ぶ。範囲、概ね北半球に限るも、稀に南洋もその域とする。成りてその体験的具現を実現、その道に邁進す。耀子幼少より花鳥を愛し今日に至るなり。これ「カフェブロッサム」ゆわれなり。今日に至るも調理研究怠り無し。その風評、優。(写真米国アラバマ州にて)2015年1月去。享年71歳。
Yoko Aiba was born in Kyoto in 1944,as a second child of Hatsu and Yonekiti Takahashi who was a naval aeroplane technical engineer. Her mother,Hatsu was a mordan woman and enjoyed reading. Her father,Yonekichi liked to study Chinese literature and listen to classic musics. Yoko took over a great sensitivity from her parents. She was majoring in domestic science in University. Afer having graduated from school, she met Katsuo and married him. They were blessed with two great sons. Katsuo enjoyed a variety of food. He traveled all over the world to look for great tastes, finally it resulted in openning up the restaurant cafe, that they wanted to share their taste with others. Yoko was very fond of flowers, so this is why she named the restaurant “Cafe Blossom”.She gone on 2015.
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2015年1月10日(土)晴
三々五々人有。午後になり、2時半をまわって一段落。そうなると、病妻の事が気になって仕方がない。後は、息子に頼んで、病室に駆けつける。老妻はベッドに座って頭を下げてぼんやりしている。老輩の顔を見ると、「カッチャン!今日は行かないで、ズットいてよねぇ」我儘をきいてと小さな声で訴えるのである。しかし、今夜は孫の成人式の祝いもある、家族の様子はうねる如く動いている。だが、老妻の弱音はめったにない。「大丈夫、ずっと此処にいるから安心なさい」と励ますのである。夜になってみると、老妻も落ち着いてきて「また、病室に戻ってくればよい」と言いだし始め東京に行っているいる孫の顔をみに出掛ける。暫し、家族団欒の後、消灯時間の過ぎた病室に戻ると、寝ていたと思っていた老妻は起きて帰りを待っていたのだ。孫の健やかなるを報告。暫くは肉のそげてしまった背中をさすり終夜付き添う。
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2015年1月9日(金)晴、寒風有
朝より寒風有。今日は病室を息子夫婦に任せ、営業準備に用足しに出掛ける。明日よりの営業準備。他、特に記す事無。ヨーコさんの意識少し混濁の報息子より有。
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2015年1月8日(木)晴、寒風有
朝より寒風。病室訪。今日はよーこさんが初めてお粥を半分食べた!「食べて、体力を付けなくちゃ・・。」と言う也。午後襟巻、ロシア帽、マスク、外套を羽織り10キロ歩いた。昨夜よりパリで起きた新聞社銃乱射事件の続報が続く。予約の電話有。有難きかな。老輩の体重56.1キロ
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2015年1月7日(水)晴、寒風有
今日は寒風有。老妻の衰微変わらず。病室にて読書。午後、防寒仕様に身を固め散歩に出る。念のために、毛皮のロシア帽を被って出掛けたが、寒風のため頭を守るには最適の選択であった。概ね8キロ歩く。今日より連休の予約も入ってきた。有難きかな。
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2015年1月6日(火)曇
今日も少し歩いた。ラジオより聞こえる話に耳を傾けると、今次大戦より70年の節目の年で、中国や朝鮮半島、記念行事が目白押しだと云う。しかして、ヨーロッパでも5月にはそういう事が行われるに違いない。先月、書店で「ヒトラーランド」を買って読み始めているが、そう思ってみると、出版業界も関連書籍の出版が続出するに違いない。節目といえば、今より40年前は、中国や朝鮮半島によく出掛けて行った。その頃の中国は特に印象的であった。なにしろ、大都会にも車というものはほとんど見かけない。たまあに走っているのは、トラックのたぐいだ。朝の出勤風景も凄い。地面から人が湧き出してくるように、独特の緑色をした人民服姿の人々が自転車に乗って幅の広い道路をびっしりと占領している。壁新聞があり、紅衛兵姿の中学生くらいの子供たちが、赤い小さな毛沢東語録を手に持って、首には赤い布切れを巻いた姿で、集団で「ピーリン・ピーコー」とストーガンを叫びながら行列を作り街をねりあるく姿は街の至る所で見かけるのである。バスには人があふれんばかりに乗っている。その光景は活力というには余りにも理不尽な、ちょっとうまく表現できないものが胸に残ったような気がした。今日は午前中、老輩の眼底出血の検査。出血は続いている。直ぐに危機的状況になるのではないが、継続観察を要すると先生はおっしゃる。2月中再訪予定。午後、病室訪。ヨーコさんはこの世に名残はあれど治療にはほどほど疲れたと愚痴を言う。体がつらいと言う。背中をさすり、手足をさする慰めること頻り也。血小板輸血。老輩の体重55.5キロ也。
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2015年1月5日(月)晴
朝より病室訪。老妻の様態変わらず。足の訓練の為太田市中に出掛ける。今日は陽射しにさそわれて10キロほど歩いてしまった。しかし、このぐらいの事をやらないと、体力がつかない。暮れから正月にかけて、無我夢中で過ぎてしまったが、街は動き始めた様だ。病室では老妻が明日は輸血ですと言う也。
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2015年1月4日(日)曇後晴
9時起床。11時を過ぎて、息子が作りし「アスパラサンド」を持ち、病室に向かう。老妻は一切れ飯。老輩は腹を満たすために翡翠軒に歩。空気は冷たいが、風もなく、しっかりとした陽射しがお散歩日和だ。往復8キロ歩いた。3時に病室に戻る。家内は寝ている事が多くなり、夕飯はたべず。入院から5日ばかり・・・、その変化に困惑するばかり也。7時半まで病室に留まる。帰路、ピノキオにて飯。
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2015年1月3日(土)晴、風有寒
今朝は7時50分起床。寒風有。パンを焼いて飯。とうとう独りになってしまったというような孤独感有。今日も病院途中の大パノラマを望。老妻に太田市内の上等な仕出し弁当を買い、病室に持ち込む。刺身を美味しいと食べる。一段落後、老輩も腹を満たすために、太田市中に歩し、翡翠軒にて飯。病室に戻る途中、書店に立ち寄り書棚で「ヒトラーランド ナチの台頭を目撃した人々」という世界7カ国刊行のベストセラーという帯がついているモノを買う。病室ではヨーコさんは咳、痰が出る。「助けてくれぃ!」と言い始める。夕暮、孫の家で飯。
